二俣の地名の由来と公会堂



二俣公会堂は、もともとは、坂田藤蔵氏の豪邸(周囲は高塀で囲まれ立派な門構え、 中は大きな米倉庫やいろんな倉庫に囲まれ立派な庭付きの大屋敷)の居の部分です。



近世後期(1840年頃) 坂田藤蔵家は、坂田最一兵衛家の分家であるが、 長束木綿問屋で姫路藩最大の集荷高を誇っており、戦前までは、一般に「木綿屋さん」と呼ばれていました。

明治時代には、子孫の坂田啓太郎さんが、新井(しんゆ)の管理等々で種々貢献されており、記功碑が、播磨町役場内(中央公民館横)が建立されています。

そして、代々、庄屋、村長(平岡村初代村長)、戸長等地域ために尽されています。お墓は二俣円明寺境内墓地にあります。



また坂田家は、戦前まで二俣の大地主でもあったが、銀行事業も失敗もあり、大方の農地を失い、かつまた、戦後GHQの農地改革で、地主が保有する農地は、政府が強制的に安値で買い上げ(事実上の没収)、小作人に売り渡されています。

そして、住居は、二俣町内会が購入し、現在「二俣公会堂」として利用しています。



「二俣」の地名ですが、水路の分流するところからか、岸目(きしめ)、西ノ川(にしのかわ)、雁羽目(がんばめ)、女郎目(じょろめ)など水路を示す小字もあります。

一方、坂田家は、滋賀県の近江出身者であり、その土地に縁のある「二俣王」から命名したとの書き物もあるが、年代からして、 居を構える(1600年頃)までに「二俣」という村は存在しており、前説の地形から付けられたと言う方が一般的であろうと考えられます。

加えて、飯沼博一先生の説もあります。

しかし、まだまだ、謎の部分が多く確定は出来ません。




inserted by FC2 system