< 解答 > 、明治15年、二俣村には64軒しかありません。 兼業農家も多かったと思われますが64軒中35軒が農業以外の何らかの仕事を持っていた。 二俣村は、商業が随分とさかんな集落でした。 これらの職業調べから明治20年前後の二俣村の風景を想像してみてください。 (明治22年4月1日までは二俣村、以後は平岡村二俣)
現在、その子孫のかたの名前を()書きしようと、調べていましたが、個人情報の保護の観点から調査を打ち切りました。 二俣円明寺の檀家で西谷地区の方がいらっしゃいますが、お寺の住職さんに尋ねれば、「もともとは、二俣地区の住民で山陽道の沿線で商売をするために出て行った方々です」との事でした。 飯沼先生のブログの通り「平岡村二俣は、商業のさかんな集落」だったのでしょう。 |